5月12日はナイチンゲール(1820~1910)の誕生日に由来し、看護の日です。今年はナイチンゲール生誕200年に当たります。
クリミア戦争で負傷兵たちを献身的に看護し、公衆衛生、看護教育の分野で大きな業績を残した方ですが、統計学でも大きな功績を残しました。
身近なところでは、私たちのプレゼンでおなじみのレーダーチャート(放射線の軸で表したもの)はナイチンゲールが初めて考案したものです。
看護師を志して勉強を始めた時、ナイチンゲールは既に31歳でした。34歳から2年間クリミアに従軍し、帰国した37歳以降は慢性疲労や虚脱症状に苦しみ、多くの時間をベッドの上で過ごしましたが、統計学への功績はこの時期から始まります。
常に男性社会の反対勢力に会い、また健康面の制約も大きい中で。どのように自らのキャリアを拓き、人類に功績を残していったのか、学んでみましょう。
30代からのファーストキャリア
ナイチンゲールは裕福な家庭に育ち、幼いころからフランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ哲学、数学、天文学、経済学等を学びましたが、当時は女性は結婚して家庭に入るというのが伝統的な考えでした。
ナイチンゲールが家族の反対を押し切ってドイツで看護の勉強を始めたのは31歳の時で、初めはロンドンの病院で無給で働いたそうです。当時の上流階級の人の平均寿命が45歳といいますから、キャリアのスタートはかなり遅いのではないでしょうか。
トイレ掃除から始まるキャリア
ナイチンゲールはクリミア戦争の兵士たちの劣悪な状況を耳にして従軍を希望し、40名近い看護師たちのリーダーとして兵舎病院に着任しましたが、軍医たちの拒否に会い、なかなか仕事をさせてもらえません。
そこで目をつけたのが、縦割り組織で誰も管理していなかったトイレ掃除、次いで衣服の洗濯や食事の世話でした。徐々に病院に切り込みを入れて活動を広げ、これら衛生の改善だけで死亡者を減らして成果をあげていきます。
「せっかく看護の専門知識を身につけたのに、トイレ掃除や衣服の洗濯なんて自分の仕事じゃない!」と言いたくなりそうです。
おそらく、それらの仕事に衛生の改善という意味を見出し、実際の成果を実感し、今後の戦略を共有する、こうした努力でチームのモチベーションを維持していたのではないかと推察します。
2年間の従軍を経て帰還したナイチンゲールは、帰国後、この期間中の資料に基づく膨大な分析を始めます。これが彼女の統計学者としてのキャリアとなります。その2をご覧ください。